FIFAワールドカップ26アジア2次予選 兼 AFCアジアカップサウジアラビア2027予選 が11/16(木)から始まります!初戦はミャンマー代表!
ミャンマー代表にどのような選手がいるんだろう?と調べていた中、日本で難民認定された、ピエ・リヤン・アウン選手が目に留まりました。皆さん知っていらっしゃいますか?
今日はサッカーミャンマー代表のピエ・リヤン・アウン選手について調べてみました!
ピエ・リヤン・アウン選手ってどんな人?
プロフィール
【国籍】 ミャンマー
【生年月日】1995年12月17日(27歳)
【出身地】 マンダレー
【身長】 180cm
【在籍チーム】Y.S.C.C.横浜 (フットサル)
【ポジション】 ゴールキーパー(サッカー)、ゴレイロ(フットサル)
日本では横浜でフットサルチームに在籍しているんですね。ちなみに「ゴレイロ」と言うのはフットサルは語源がポルトガル語なので、ゴールキーパーのことを表しています。 ちなみに、サッカーはイギリスが発祥と言われているので、日本でも英語からゴールキーパーと呼ばれるようになっています。
では、何故ゴールキーパーを目指したのでしょうか?経歴などを見ていきましょう!
経歴
中学時代(13歳頃)…路上でサッカーを始める。学校でフォワードだったが、路上サッカーで
フォワードは大人が優先だったのでゴールキーパーを引き受ける。
2012年(16歳)…ミャンマー・ナショナルリーグのヤダナボンFCに入団
2014年(18歳)… AFF U-19ユース選手権出場を経て、U-22ミャンマー代表へ
2019年(23歳)…FIFAワールドカップ・アジア2次予選(控えゴールキーパー)
2021年(25歳)…日本で難民認定
中学生の時からサッカーを始めたんですね。学校ではフォワードだったピエ・リヤン・アウン選手ですが、大人と混じる路上サッカーでは、きっと危ないからという理由でフォワードが大人が優先だったのでしょうね。仕方なく始めたゴールキーパーですが、3年後にはナショナルリーグに在籍するほどの実力!
普段大人と混じって活動していたので、大人の蹴るスピードもキャッチできる対応力が身に着いたのかもしれないですね。私だったら大人のボールをキャッチするのは怖さもあるし、身体が追い付かないので、ピエ・リヤン・アウン選手はとても負けん気が強くて練習を怠らなかったんだろうなと思います。
そんな彼が母国ミャンマーのナショナルリーグで活躍も、日本に難民認定された理由とは何だったのでしょうか?
日本に難民認定された理由は?
ミャンマーの情勢
ミャンマーは新型コロナウイルスの影響による経済悪化はあったものの、経済成長率を2.0%と見込んでいました。
ところが、2021年2月1日にミャンマークーデターが起こり、国家緊急事態宣言の規程に基づき、ミャンマー国軍が権力を掌握することとなりました。少数民族とともに抵抗運動を続けていましたが、ミャンマー国内外では抗議デモなどが行われ、これを国軍側が弾圧しているほか、少数民族に対しては空爆も加えていました。
軍による市民への弾圧が続き、デモ隊に対して重火器を使ったケースもあり、犠牲になった市民は900人近くに上りました。
クーデターが起こった背景としては、与党の国民民主連盟(NLD)と国軍系の野党・連邦団結発展党(USDP)の関係悪化からです。
アウンサンスーチー政権の最大の課題と位置づけられていた少数民族武装勢力との和平協議に進展はなかったのですが、2020年の選挙で与党のNLDが勝利。それに不満をもった国軍系野党のUSDPが不正だなんだと言っていたそうです。
クーデター前にはNLD政権の実質的な指導者であったアウンサンスーチーさんが拘束され、無線機の不法輸入などの容疑と理由をつけて訴追されています。
難民認定の経緯
2021年5月28日
遠征先の千葉市で行われたワールドカップ予選日本代表戦。
ピエ・リヤン・アウン選手は国歌斉唱の際に抗議の三本指を掲げて、クーデターに対する抗議の意思を表明しました。
「軍は多くの国民を殺していて、国民は不当な迫害を受けている。しかし、今の状況では、目の前で誰かが殺されても、どこに通報したらいいか分からない。こうした状況を世界中の人に知ってもらいたかった」と語っています。
その後、母国に戻れば殺害される恐れがあると考え、軍への抗議と引き換えに重い代償を背負うことになり、約半月に渡り今後どうするか決めあぐねていました。
実は試合前、「大勢の市民が犠牲になっている中、国際試合を行うことは軍の弾圧を黙認することになる」という理由から、スタジアムの外で、在日ミャンマー人たちがミャンマー代表が試合をすることに対して反対集会を開いていました。
ピエ・リヤン・アウン自身もこれまで抗議デモに参加し、放水や催涙ガスを浴びており、ワールドカップ予選に招集されたとき、軍に反対する気持ちから拒否する意向だったものの、ミャンマーサッカー連盟に説得され「チームに迷惑をかけられない」と、やむをえず参加を決めたと言います。
自分たちに対し「軍によって派遣されたチーム」という批判が寄せられる中、「国軍の代表ではなく、市民の代表」であることを示したいと、来日前から軍に抗議することを決めていたと明かしました。
ピエ・リヤン・アウン抗議の映像は、SNS上でも拡散され、彼の身の上を案じる声が広がりました。
チームと市民との間に挟まれ、両者の気持ちが分かる中での、大変命がけの抗議だったのですね。ミャンマーのクーデターの内容は当時多くは騒がれていませんでしたが、彼が抗議したことで関心度が高まりました。相当の覚悟だったと思います!!!それにしても何故3本指だったのでしょうか?
会場に向かう途中で、立てる3本の指にメッセージを書くことを考えついたそうです。
コーチたちに見つからないようボールペンを靴下の中に入れ、トイレの中で
『WE NEED JUSTICE(われわれには正義が必要だ)』と書きました。不安でしたが、日本戦は高い注目を集めていたので、こんなチャンスは二度と来ないと思ったと取材で語っています。
確かにこの方法ならとてもシンプルで見つかり難いですね!日本戦は高い注目を集めていたそうですが、正直知りませんでした^^;でもやはりその後のニュースで話題になりましたね。
2021年6月15日
日本での最終試合後、宿泊先のホテルから逃げ出そうとしたが失敗し、チームメイトとの帰国を一度は決心しました。
翌日16日午後8時頃、関西国際空港に到着。出国手続中に携帯電話で近しい人や多くの支援者から励ましの言葉をもらったことで「最後の最後まで頑張ろう」という気持ちになり、諦めていた日本への亡命を再び決意し、離陸2時間前に空港の出国審査で帰国を拒否しました。
17日、記者会見を開き、難民認定を申請する意向を示しました。
ホテルからの脱走に失敗した夜に駆けつけた支援者の一人の空野佳弘弁護士は、実質的に監禁されていると判断し、大阪府警に告発状を提出しました。
大阪府府警が動かない中、多くの支援者は諦めず、あらゆる人脈を駆使して彼の友人を探し出し、メールや電話などで本人を励まし続けたそうです。
そうした多くの支援者からの諦めない気持ちが、ピエ・リヤン・アウン選手の心を変えたのですね。素敵な支援者に恵まれて本当に良かったです!
2021年7月2日
日本政府から「緊急避難措置」によって半年間の在留資格と就労が認められ、7日から9日までJ3リーグに属するY.S.C.C.横浜(以下、Y.S.C.C.)に招かれて同クラブの練習に参加しました。
帰国を拒否した時には、日本でサッカーができるとは思っておらず、何の予定もなかったそうです。活動の場を提供したのは、支援者のノンフィクション作家、木村元彦氏らでした。木村氏は「サッカーができる場を作る」と約束。自らの人脈をたどって、サッカーによる世界平和を掲げるJ3のYSCC横浜に行きつきました。
2021年7月23日
Y.S.C.C.の練習生になることが決定。
難民の選手登録は日本サッカー史上初めてだそうです!
クラブはこの時点で既にゴールキーパーを4人抱えていたことや、フィジカルが落ちていたことなどを理由に正式な契約は見送られました。ですが、練習状況からフットサルでのプレーが適していると評価したクラブ幹部より、Y.S.C.C.が保有するフットサルチームでの練習参加を提案され、本人もこれに同意しました。
これがフットサルを始めたきっかけなのですね!
2021年8月20日
大阪出入国在留管理局は、ミャンマーに帰国すれば迫害される恐れが強いとして、ピエ・リヤン・アウンを難民認定し、難民認定証明書を交付した。
2021年9月10日
Y.S.C.C.が保有するフットサルチームにゴレイロとして正式契約(プロ契約)を交わしたことが発表された。元サッカー日本代表の松井大輔とともに入団したそうです!
まとめ
とても壮絶な1年間だったのですね。あれから2年彼はどのような活躍を見せるのでしょうか?
日本代表VSミャンマー代表の試合が楽しみですね!
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